初夏といっても山間いの里では、朝晩は涼しい。
真由たちの暮らす里では、近くにせせらぎが走っているせいか,冷気が差し込むくらいである。
そんな中ここ数日、真由は落ち着かない気持ちで過ごしてきていた。
秋口を思わせる冷気の寂びゅう感が、真由を感傷的にしていた訳ではない。
それも少しはあるだろう。
それよりも、使命を帯びて城勤めに入るための、出発の日が明日に迫ってきていたからである。
真由が女忍びとしての最後の修行を終えてから、一ヶ月近く経っている。
この仕事を告げられた時、真由の心は躍った。
(やっとわたしも忍びの働きができる・・・)
そんな真由でも日を追うごとに、不安がつのってきていた。
無理もないだろう、真由がこの里を出るのは、生まれて初めてなのだから。
ましてや、城勤め独特の言葉遣い、慣れない着物での立ち居振舞い。
知らない人ばかりの中での探索、味方は誰もいない。
自分ひとりで判断し、行動しなければならない。
そんな不安が、一気に襲いかかってきたのである。
でも、いくら悩んでも仕方のないことだった。
結局は、幻舟斎の教えを護って、一生懸命勤めに励むことでしか道は開けない。
「もう寝みましょう、明日は早いのだから」
真由はそうふんぎりをつけて、床に入った。
翌朝、真由は日が昇るとすぐに、幻舟斎宅へ赴いた。
手甲脚半を着け、旅支度を整えた姿である。荷物はできるだけ少なくしたつもりだったが、やはり女である、一抱えの布包みができた。(この時代には、まだ「風呂敷」という名称はない)
幻舟斎の家には、すでに霧の小十郎が来ていた。
真由を送っていくためである。先方の村からは、途中まで迎えが来るという。
幻舟斎の手の者だろう。その者と落ち合う場所まで、小十郎が付き添ってくれることになっている。
真由の心が軽くなったのは、安心感からだけではないだろう。
真由が向かう村は、ここより五里(約20Km)程下った盆地にある。
とくに急がなくても、日のあるうちに到着できる距離である。
そこに一晩泊まって黒鷹城に赴く、という手筈になっているらしい。
真由はその村の農家の、遠縁の娘という触れ込みである。
こういう形は珍しくない。
城勤めに上がる娘は、容姿に優れ、利発でなければ勤まらない。
娘の場合いくら頭が良くても、それだけでは秀でていると認めてもらえないのは、いつの時代も同じである。
それに、送り出す農家側にも益はある。
礼儀作法などは自然と身につくし、それよりも「城勤めに上がった娘」ということで箔がつき、嫁入りの条件が良くなるわけでもある。
そういう条件の中で、真由は申し分のない娘だった。
「真由、黒鷹城に入ったらまず、勤めに精を出すことじゃ。後日、小十郎がつなぎに入るから、その指示があるまではな」
「はい」
真由は神妙に聞いている。
「伍平という男が途中まで迎えに来るから、道すがら様子を聞いておけばよい」
「ああ、伍平どんが来るのですか? それなら安心だ」
小十郎も知っている男らしい。
幻舟斎はそれ以上真由に、やさしい言葉をかけなかった。
二人が出立つする時も、とくに見送ってはくれなかった。
甘えの気持ちは持つな、ということだろう。
目的の村への道程は、小さな峠をいくつも越えて、少しずつ下っていく。
はっきりとした道がついていない所もある。
旅慣れていない真由には大変な道中のはずだが、辛くはなかった。
むしろ心は躍っている。小十郎との二人旅だからだろう。
小十郎は歩きながら、いろいろ教えてくれる。
これから落ち合う伍平という男は、四十がらみの人の良い下忍であること。
黒鷹城は外観しか知らないが、小さな城とのこと。
真由が城に入って三日目に、小十郎がつなぎに入ることなど。
真由にとっては重要なことばかりだった。
「伍平どんと落ち合ったら弁当を使おう。真由のおっ母さんが、三人分持たせてくれたんだ」
小十郎は、背中に負っている包みを指さした。
「まあ、そうでしたの」
やはり、母親らしい気配りをしてくれていたのだ。
真由は家を出る時の、母親の顔を想い浮かべた。
役目のことは何も言わなかったが、よく解かっているのだろう。
どんなに危険な任務であるかが・・・。
「水にだけは気をつけるんだよ」
たった一言だけだったが、今思えば真剣な表情だった。
「あっ、伍平どんだ」
峠を下っている途中、一番低い所の林の中から、人が出てくるのが見えた。
真由を驚かさないため、早めに姿を現したのだろう。
「やあ小十郎、久しぶりだな」
「伍平どん、御足労かけます」
「何の何の、この奥に沢がある。そこで少し休憩しよう」
「それならここで昼としようか。さあ真由」
伍平が出てきた林の中へ入り、少し進むと、小さな流れのある場所に出た。
小十郎が清水を汲んできて、三人はそこで弁当を使った。
「黒鷹城の主は、なかなかの野心家のようじゃのう」
伍平が握り飯をパクつきながら言った。
「波多野弾正か、どうも素性がはっきりしないが・・・」
「本人は小田原源氏の血を引くと名乗っているが、どうだか」
この時代、いかに下克上の世とはいえ、上に立つ者の出自は重大である。
あの徳川家康でさえ、朝鮮通信使への書状には「源家康」と署名している。
四大氏姓(源平藤橘)の血筋でなければ、権力は持てても権威は保てないのである。
だから成り上がりの領主などは、家系図を捏造している者も多くいるらしい。
それでも豊臣秀吉(百姓の出)だけは、どうしようもなかったようだ。
そこで秀吉は、四大氏姓を五大氏姓(源平藤橘豊)にしてしまおうと、
野心を抱いていたふしがある。志ならず豊臣は滅亡してしまったが・・・。
それはさておき、真由たちの課題は波多野の素性を探ることではない。
当面の野望がどこにあるのかを、察知することである。
それが幻舟斎を通じての、仕事の要請であった。
真由は、小十郎と伍平の情報交換を聞いているだけで、充分参考になる。
弾正には正室が無く、側室を一人置いているとのことである。
おそらくそれなりの地位を得たら、公家の姫でも迎える腹積もりなのだろう。
昼食(ちゅうじき)を済ますと、小十郎と真由たちはここで別れることにした。
「真由、心をしっかりと持て。姿は見えなくても、俺たちの眼はいつも真由を見ているから安心しろ」
「はい・・・。それでは行ってまいります」
真由は小十郎に見送られて、峠を登っていく。
小さな峠を登りつめると、すぐに道は曲がっている。
真由は名残惜しそうに振り返り、軽く会釈して姿を消した。
小十郎は今来た道を引き返していくのだ。
そう思うと真由の心には、不安と寂びゅう感が襲ってくる。
もう、小十郎にも母親にも、二度と会えないのではないか?
そんな心細さが、真由の小さな胸を締めつけた。
それは、初めて生まれ故郷を離れる娘の、素朴な不安でもあった。
(小十郎さまが見ていてくれる、わたしを護ってくれる・・・)
真由は精一杯、そう信じようとしていた。
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